はげちゃんの世界

人々の役に立とうと夢をいだき、夢を追いかけてきた日々

第70章 死ぬということ

人はだれしも、死とはどういうことなのかを詳しく知りたいと思っている。人の死にゆくさまを率直に語り合って、はじめて我々が最も恐れている死の側面に対処できる。人はどのようにして死んでゆくのか、看護の現場で見られた死にゆく人々の姿を学ぼう。

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1 死への旅路

 1-1 人の死は医師が決める

死亡とは人が亡くなることを意味します。火葬や葬儀もこの死亡をもって行われるのが特徴です。そしてこの死亡は、「医師の判断」によって決まります。人が死に至ったかどうかを判断できるのは、日本国内においては「医師のみ」と法律で決められています。

そのため、病院ではなく自宅や外出先で死亡した場合でも、最終的な死亡診断は医師によって行われます。医師が死亡していると判断すれば、死亡していることになります。しかし、死亡診断するための診察にも決められたやり方は法律で定められてはいません。

医師はどのような点を見て、死亡していると判定するのでしょう。医師がその人の、呼吸の停止、脈拍の停止、瞳孔拡大の症状が現れていると3点を確認できた場合、その人は死亡していると判定しています。

混同されやすい症状は、長い間意識が戻らない状態の「植物状態」が挙げられます。しかし、植物状態は脳死とは異なり、治療によって回復する見込みがあるのが特徴です。脳死の場合は、医師によって治療でも回復することはないと判断された状態を指します。

脳が停止して回復する見込みがないと判断された場合は、臓器も同じように機能を停止する前に、特定の臓器の移植が行われる場合があります。日本では法律により、臓器移植を行うことを前提とした場合でのみ、脳死は人の死として扱われます。

日本で脳死の判定をする時は、臓器移植法で決められた判定基準によって行われます。臓器提供者が脳死状態である、臓器提供者が臓器提供者になるという意思表示を脳死になる前に行っていた、家族の同意を得ている、この3つの条件を満たせば、その人は脳死によって亡くなったものと判断され、臓器提供も可能になります。

この基準をもって息を引き取ったと判断してよいのか、現在も賛否両論があります。しかし、脳死判定にかかわる法規範が設けられたことで、臓器提供により命が助かった人がいるのも事実です。日本では年間100人前後の人が死後に臓器提供を行っています。

医師がその人の死の判定をするとき、複数の医師の判定を必要としません。これが疑惑を招くことになります。臓器移植をする場合、臓器を取り出される人は本当に死んでいるのでしょうか。治療によって回復する見込みはないのでしょうか。

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 1-2 疑われる死の判定

1968年8月8日、札幌医科大学胸部外科チームは世界で30例目となる心臓移植手術を初代胸部外科和田寿郎教授の執刀で実施しました。ところが心臓提供者の死の判定を巡り、大きな疑惑を生みました。

心臓提供者(ドナー)は、海で溺れた当時21歳の駒沢大学生の山口義政さんです。山口義政さんが小樽市内の病院から札幌医科大学へ搬送された直後、麻酔医は麻酔科の助手から筋弛緩剤を借りて注射し、抗議した麻酔医を蘇生の現場から追い出しました。

さらに、この麻酔医は移植後の拒絶反応をやわらげるため、ステロイドホルモン製剤の「ソル・コーテフ」(一般名コハク酸ヒドロコルチゾンナトリウム)を、通常は1~2筒のところ10筒も大量投与したことを麻酔科の助手が目撃していました。

この証言から、胸部外科医師団が行ったのは溺水患者を助ける処置でなかったのです。心臓移植を受ける患者(レシピエント)は、心臓弁膜症だった18歳の男子高校生宮崎信夫さんで、同大第二内科から人工弁置換術のため転科してきた患者でした。

しかも、多弁障害ではなく僧帽弁だけの障害で、二次的に三尖弁の障害はありますがこれらは第二内科が依頼した弁置換術で治癒の可能性があったため、心臓移植を受ける患者(レシピエント)がそもそも心臓移植適応ではなかった可能性も発覚しました。

転科前の第二内科による診断と胸部外科による診断内容は、ほぼ同時期に診断がおこなわれたにもかかわらず相当の隔たりがあったのです。宮崎信夫さんの心臓の病気は連合弁膜症ではなく、僧帽弁の人工弁置換術で済むはずでした。

和田寿郎教授は、名誉欲から強引に連合弁膜症として心臓移植を実行したと考えられるのです。これを隠蔽するために、大動脈弁の標本を入れ替える工作もしていました。しかも、宮崎信夫さんは手術後83日目に急性呼吸不全でこの世を去ったのです。

「医師の判断」のみにより死が決まるので、裁判所も殺人と断定できなかったのでしょう。でも、山口義政さんと宮崎信夫さんは、札幌医科大学の和田寿郎医師と胸部外科医師団によって実験材料にされたとしか思えません。故人となられたお二人のご冥福をお祈りします。

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2 死に立ち会った新米医師

 2-1 それは突然起こった

大きな大学病院の個室だった。シャーウイン・B・ヌーランドがこの職業について初めて見た死の無情なまなざしは、きちんと整えられたベッドのパリットしたシーツに一見心地よさそうに横たわっている52歳の男性にじっと注がれていた。

医学部の三年生になったばかりで、初めての患者と死の両方に一度に出合うことになったというのは、わたしにとってなんとも不憫なことだった。ジェームズ・マッカーティは建築会社の重役で、がっしりした身体つきの男だった。商売が繁盛しているおかげで、現在のわれわれなら自殺行為だと承知しているような生活のパターンにはまっていた。

喫煙や赤身の肉、厚切りのベーコン、バター、大食いなどは成功した見返りであって、なんの危険もないと思われていた時代である。そして、マッカーティはしまりなく肥満して、仕事も座ったままで片づけることが多くなっていた。

マッカーティが内科病棟に着いたのは午後11時、私も一緒についていた。二人いる当直の看護婦の一人が、私のあたらしい患者を担送車から心地よいベッドに移すまで、私は息を凝らして待った。看護婦がポリオの急患の手伝いをするため、小走りに廊下をかけて行ってしまうと、私はマッカーティの部屋にそっと入って後ろ手にドアを閉めた。

マッカーティはむりに弱弱しい笑みを浮かべて私を迎えてくれたが、そこに現れたのが私では、とても安心するどころではなかっただろう。荒っぽい大男たちを取り仕切ってきたあの高圧的なボスが、私の子どもっぽい(22歳だった)顔を見たとき、そして病歴の聞き取りと検査を私がするというのを聞いたとき、どんな思いをしただろう。

どんな思いをしたにせよ、彼にはじっくりと考える余地があまりなかった。私がベッドのそばに腰を下ろすと、マッカーティはいきなり頭をのけぞらせ、言葉にならない唸り声をあげた。まるで傷ついた心臓のどこか奥の方から喉元へこみあげてきたような唸り声だった。

そして、両の拳をそろえて驚くほど力強く自分の胸に一度だけ打ち付けたと見るまに、顔と首がたちまち紫色にふくれあがった。眼球が急に盛り上がってきて突出し、まるで頭部から飛び出そうとしているようだった。ごろごろという音のともなう非常に長い耳障りな息をして、マッカーティはそのまま静かになった。

私は大声で彼の名前を呼び、さらに先輩医師の名前を呼んだ。廊下のずっと向こうのポリオ患者の部屋は戦場のような忙しさで、私の声などが届くはずがない。廊下をかけて行って助けを求めてもよかった。だが、それでは貴重な時間がむだになる。

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 -2-2 緊急の処置

私は指でマッカーティの頸動脈に触れてみた。それは拍動もなく静かだった。その当時は、心臓の患者を入れる病室にはかならず開胸器具一式の入った大きな布包が備えてあった。心停止の際に胸部を切開する道具である。こうした場合の標準的な技術は心臓をじかにマッサージすることだった。

私は器具の入った滅菌済みの包を引き裂いて、一番上に載せてある外科用メスをつかんだ。それまで一度の経験もなく、人がするのを見たこともないのに、マッカーティの乳頭の下部の胸骨から出来るだけ遠く背中まで、半ば身を起こしている姿勢を動かさずに、驚くほど滑らかに一息で切開した。

切開した動脈と静脈から黒ずんだ血液がわずかに滲み出たがそれは生きた血液ではなかった。心臓発作による死を確認する必要があったとすれば、これこそまさにそうだった。更に血の気のない筋肉を長く切り開くと胸腔に届いた。

私は開胸器と呼ばれる器具を肋骨の間に滑り込ませ、そのつめ車を回してやっと片手を押し入れると、すでに静止しているマッカーティの心臓とおもわれるものをつかんだ。心膜と呼ばれる繊維質の袋に触ってみると、中の心臓はぎくしゃくと不規則にのたうっている。

教科書に出ていた心臓細動という末期的な症状だと気づいた。永遠の休息に入ろうとしている心臓の最後のあがきである。消毒もしていない素手で鋏を手にすると、私は心膜を大きく切り開いた。人間らしい死に方

そして、びくびくと動くマッカーティの哀れな心臓を出来るだけそっと持ち上げ、しっかりと着実に一定のリズムで、いわゆる心臓マッサージを加えた。脳への血流を維持するためのマッサージで、脳に電気的な刺激を加え、それによって細動する心臓が正常に戻るまでつづけるのである。

細動する心臓は、活発にうごめくウジ虫の入ったゼリー状の濡れた袋を手のひらに載せた感じたという記述を呼んだことがあるが、まさにそんな感じがした。握りしめて加える圧迫に対する抵抗が急速に弱まっていくことから、心臓に血液が充満していないことがわかった。

だから、むりにそこから何かを押し出そうという私の努力は徒労だったし、肺に酸素が送り込まれていなければ何の意味もなかった。それでも、私はマッサージを続けた。すると、突然、人の度肝を抜くような恐ろしいことが起こった。

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 2-3 医者になるということ

マッカーティが、そのころには魂が完全に肉体を離れていたにもかかわらず、もう一度頭をのけぞらせたかと思うと、大きく見開いたガラス玉のような死んだ目で天井をじっと見上げ、はるかな天に向かってきしむような恐ろしい声でウオーッと叫んだのである。

まるで地獄の番犬が吠えているかのようだった。あとになってわかったことだが、そのとき耳にしたのはマッカーティの臨終の喉音であり、死亡したばかりの人間の酸性度が高まると引き起こされる喉頭筋の麻痺する音だった。

それはまるで、マッカーティが私に向かって、生き返らせようとしてもむだだから、もう断念するようにと言っているように思われた。その部屋で死体と向き合って、ガラス玉のような眼を覗き込んだとき、私はもっと早く気付くべきだったことにやっと気づいた。

マッカーティの瞳孔が真っ暗に開き切っていて動かないのだ。それは脳死を意味し、二度と光に反応しないことは明らかだった。死の現場である雑然としたベッドから一歩下がってみて、自分が汗びっしょりなっているのに気づいた。顔から汗がしたたり落ち、両手と白衣は開胸部から漏れ出た黒ずんだ血液でぐっしょり濡れていた。

私は泣いていた。身体を震わせながら嗚咽していた。自分がマッカーティに向かって、生きていてくれと叫んでいたことにも気づいた。また、聞こえているかのようにその左耳に名前を呼び続けていた。その間にも、自分が失敗し、マッカーティを救えなかったことの挫折感と悲しさがこみあげてきて泣き続けた。

急にドアが開いて先輩医師が飛び込んできた。彼は一目ですっかり状況を見て取り、事情を呑み込んだ。私の両肩は上下し、涙はこらえようもなくなっていた。先輩は大股にベッドのそばの私のところにやってきた。肩を抱いて、ひどく静かにこう言った。

「大丈夫だ。よしよし、もう大丈夫だ。出来る限りの手を尽くしたではないか」。そしてその場所に私を座らせ、マッカーテの死が必然的で食い止めようがなかった理由、臨床的かつ生物学的な理由を、やさしい口調で辛抱強く説明してくれた。

だが、あの穏やかで静かな声で語ってくれたことで、今思い出せるのは「いいかい。医者になるということはこういうことなんだ。分かっただろう」という言葉だけである。

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 2-4 マッカーティの死の原因

ジェームズ・マッカーティの心臓が死んだのは、十分な酸素が供給されていなかったからである。酸素が欠乏したのは、酸素を運ぶのが仕事である血中のヘモグロビンを十分に取り込んでいなかったからである。ヘモグロビンが不足したのは心臓に十分に血液が行き渡っていなかったからである。

なぜそうなるかといえば、心臓に栄養を送る血管、すなわち冠状動脈が動脈硬化症と呼ばれている症状を呈して硬くなり、狭まっていたからである。動脈硬化症が起こった理由には、マッカーティのの贅沢な食事、喫煙、運動不足、高血圧、そしてかなりの程度に遺伝的な素因などが絡み合っていた。

たぶん、甘やかされた娘からの電話が、マッカーティのひどくせばまった冠状動脈の発作を誘発し、怒って拳を握りしめる原因にもなったのだろう。その時の急激な収縮に、おそらく動脈硬化症で冠状動脈の内部に付着したプラックと呼ばれる沈着物が破裂したか、そこにひびが入ったのだろう。

いったんこれが起きると、破裂したプラックを中心に新しく凝血が形成され、すでに細くなっている血流を妨げたり止めたりする。この血流の停止がいわゆる「虚血」、つまり血液不足を招いたのだ。

そして、マッカーティの心臓の筋肉、つまり心筋のかなりの部分が血液不足に陥ったために、正常なリズムが狂わされて、のたうつような心室細動という混乱状態を引き起こしたのだ。

酸素が欠乏した場合は、アンギナ・ペクトリス(狭心症)の発作の再発という贅沢すら許されず、はじめての心虚血の発作で亡くなってしまった。脳死が起きたのは、心臓が細動し最後には停止したため、もはや脳へ血液を送り出さなかったからだ。

心臓の虚血性疼痛は急に始まって、しかも激しい。経験者が痛みの特徴をあらわすのに最もよく使うのは、締め付けられるような、あるいは万力で締め付けられるようなという表現である。ときとしては、押しつぶされそうな圧迫感となってあらわれ、耐えがたい重苦しさが胸にのしかかり、左腕あるいは首や顎にまで広がって行く。

発作に見舞われると、発汗がどっと滲み出し、むかむかして嘔吐することもある。息切れもしばしば起こる。虚血が10分以内に収まらないと、酸素の欠乏は元に戻らず心筋の一部が壊死してしまう。この経過が心筋梗塞と呼ばれるものである。

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 2-5 心臓が停止する理由

血流を妨げる物質はプラックと呼ばれる黄白色の塊で、動脈の内壁にねっとりと付着して内腔に突き出している。プラックは細胞と結合組織が老廃物や広議の脂質を包み込んだものである。動脈硬化症のもっとも一般的な原因としてアテローム(粉瘤)の形成がある。

アテロームが生成すると、大きくなるにつれて血流からカルシュウムを吸収しながらプラックと癒着してゆく。その結果、血管の内側にはかなりの距離にわたって硬化したアテロームのこぶが広がり、血管は次第にざらつくようになってしかも狭くなっていく。

個々の閉塞はたいてい、閉塞した冠状動脈から血液を補給されている2ないし3平方インチの筋肉壁にかわっている。高速の過半数の犯人とされているのは、左前下行冠状動脈すなわち左心の前面を先端に下りていき、先細りしながら心筋層に入って細かい網状に枝分かれしていく血管である。

後壁の方は右冠状動脈から血液を補給されており、この閉塞によるのは30%ないしは40%にのぼる。側壁に供給するのは左冠状動脈で、この閉塞によるものは15%ないし20%になる。

心臓のポンプで最も強力な部分であり、身体のすべての臓器と組織に栄養を与える筋力の源でもある左心室は、心臓を襲うほとんどすべてのものによって傷つけられる。タバコを吸うたびに、またバター一塊、肉一切れを食べるたびに、そして血圧が上昇するたびに、冠状動脈は血液の抵抗を強めるのである。

冠状動脈の閉塞がにわかに完了すると、急激な酸素の欠乏が生じる。そして、急激な酸素欠乏が一定時間持続すると、瞬間的に血液を失った筋肉細胞は回復不能になり、アンギナ(急性扁桃炎)の疼痛に続いて閉塞が起こる。心臓の傷ついた筋肉組織は、虚血による蒼白状態から明らかな壊死へと進む。

アテローム性動脈硬化症が進行すると、明らかな心臓発作が起こらなくても、心室は徐々に弱っていく。大動脈の小さく枝分かれした部分で冠状動脈閉塞が起きた場合、これといった兆候が出ないこともあるが、それにもかかわらず心臓の収縮力は弱まり続ける。

そして、最終的には心臓が機能しなくなってしまう。冠状動脈疾患のほぼ40%が生命を奪うのは、この心機能不全という慢性病であり、ジェームズ・マッカーティのような突然死ではない。

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 2-6 虚血性心不全

虚血性心疾患を持つ患者のうち、マッカーティのように最初の発作で無くなる心臓病患者が20%、数週間から数年のあいだに病状が悪化して突然亡くなる人を加えると、突然死の総数は実に50%ないし60%に上る。

あとの人びとは慢性鬱血性心不全と呼ばれる病気で苦しみながら、ゆっくり死んでゆく。この20年ないし30年で心臓発作による死亡率が25%減少したにもかかわらず、(というより、むしろそれゆえに)鬱血性心不全による死亡率は3割も増えている。

慢性鬱血性心不全の直接の原因は、傷ついて弱くなった心筋の収縮力が弱く、鼓動のたびに必要なだけの血液を押し出せないことである。すでに心臓に入った血液が効率よく大小の循環へと送り出されなければ、その一部は逆流して、本来血液を返してよこす静脈に入り込み、血液が出てくる肺やその他の臓器の内部に背圧を起こす。

鬱血の結果、血液の液体部分の一部が毛細血管の壁を通して漏出し、組織の膨張、すなわち浮腫を引き起こす。そうなると、腎臓や肝臓などの組織がうまく機能できなくなる。そのうえ、左心室は新しく酸素を送り込まれた血液を受け取っても、ポンプが弱っていて十分に拍出できないため、すでに腫れている器官の栄養が低下するという事態が加わり、更に問題を難しくするのである。

血液の逆流による背圧によって、心室や心房は膨らんでしまって元に戻らない。心室筋は自分の弱さを埋め合わせようとして肥厚する。こうして、心臓は肥大する。膨張し肥厚した心臓が力を発揮するには、狭くなった冠状動脈の運ぶ酸素量ではとても足りない。

弱っていた心筋がいっそう傷つくかもしれないし、たぶん新たなリズムの異常が現れるだろう。こうした異常には致命的なものがある。心室細動やそれに似たリズム障害によって心不全の患者のほぼ半数が生命を奪われるのだ。

心臓は自らをだまして働きすぎになるだけではなく、その困難から救ってくれるかもしれない他の臓器までだますことがある。たとえば、腎臓は心臓にかかる負担を減らすために、血液の余分な塩分と水分を濾過しなければならないのだが、鬱血性機能不全は正反対のことをさせる。

腎臓は受け取る血液が正常よりも少ないことを正確に感じ取るとるために、すでに濾過した塩分と水分を再吸収させるようなホルモンをつくりだし、その結果、塩分と水分が循環に戻ってくる羽目になる。そのために体液の総量は減らずに増えてしまい、それでなくてもオーバーフローな心臓の負担をさらに増やしてしまう。

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 2-7 生物学的な真のメカニズム

こうして、機能不全の心臓は、腎臓と自分自身に不利益なことになる。友であろうとしている同じ器官が思わぬ敵になるのだ。体液が充満して重い肺は、循環がスムーズにいかないこともあいまって、細菌の繁殖と炎症の進行に理想的な環境である。

だからこそ大勢の心臓病患者が肺炎で死亡するのだ。長期的な心疾患患者は、浮腫が急激に悪化して急性肺浮腫と呼ばれる状態に陥って最後を迎える。心臓だけではなく、浮腫と貧血にかかった組織によって広範囲にひろがった損傷も、様々な死を招く。

最終的には、酷使された器官そのものが働けなくなる。腎臓や肝臓がだめになれば、生命そのものがだめになるのだ。心臓病患者の中には腎不全、すなわち尿毒症に生命を奪われる人もいるし、ときには肝臓機能不全で死ぬ人もいて、その場合はしばしば黄疸が微候そして現れる。

動脈硬化症は手術の後も進行し、依然として生命をむしばみ続ける。拡張された動脈はしばしば詰まるし、移植された血管はアテロームの瘤ができる。そして、虚血症の徴候がひどく頻繁に心筋の古巣に戻ってくる。われわれがいくら遅らせても、冠状動脈硬化症の犠牲者はほぼ確実にその病気で死んでいくのである。

心室細動や心拍停止で心臓が死ななかった人も、いずれは先に列挙したよう原因で死ぬことになる。うまく呼吸ができず、十分な酸素を取り込めない。腎臓や肝臓がもはや体内の有毒物質を除去できない。細菌が組織内で繁殖する。あるいは、血圧が十分に上がらないために生命の維持が、ことに脳の機能の維持ができない。

最後のケースは心原性ショックと呼ばれている。これと肺水腫がずば抜けて多く、集中治療室や救急室では絶えずこの二つとの戦いが繰り広げられている。患者も医療スタッフもこうした闘争に少なくとも一時的には勝つだろう。

残念ながら、何も役に立たずに終わる場合が極めて多いというのが現状である。細動がどうしても止まらないかもしれないし、心筋が投薬に反応しないかもしれず、さらに心臓マッサージに応えないで、ついに最低線を割って救出の試みが無駄になるかもしれない。

患者は見知らぬ人々の中で死んでいく。断固として生命を助けようとして頑張ってくれた善意の同情的な人々だが、それでもやはり見知らぬ人達である。ここには死者の尊厳などない。公式に宣告される死の前後の時間に、組織や臓器が徐々に生命力を放棄して行く出来事の経過、これこそが死ぬことの生物学的な真のメカニズムである。

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3 看護の現場から

 3-1 死より恐ろしいこと

内科病棟で働く経験7年目の「看護婦が見つめた人間が死ぬということ」から、宮子あずささんの体験を抜粋要約しました。人が死ぬ現場に立ち会った方ですから、赤裸々な姿を伝えていただけます。死ぬということがわかってきます。看護婦が見つめた人間が死ぬということ

死の問題は、そこに至る前に多くの人が経験する老いの問題を抜きにしては語れないと思うのです。そしておそらく、多くの人が最も避けて通りたいのが、この老いの問題でしょう。多くの人が、死そのもの以上に、老いて寝たきりになることを恐れています。

「もう80も越えているんだから、死ぬことはいいの。でも、寝たっきりになって人に迷惑をかけることを思うと、心配なのよ」「死ぬなら、ポックリ行きたいわ。願いはそれだけ」。多くの患者さんから、こんな声を毎日のように私たちは聞いています。

「脳卒中はね、ガンよりつらいのよ。この先何年、この状態が続くかと思えば、本人も家族も嫌になっちゃうよ。残された日々を悔いなく過ごそうとか、そんな張りもないんだ。先が見えているからこそ、人間は人に尽くせる。多少自分を犠牲にもできる。それがいつまでつづくのかわからないとなれば、嫌になっちゃうよ」

60代初めの若さで、脳梗塞のために人の手を借りないと生活できなくなったある患者さんはこういいました。彼の言い方は、ガンの患者さんの立場からすればなんてことを、となるかもしれません。でも、彼が言うような一面は確かにあると思うのです。

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 3-2 空手形は患者を苦しめる

長い老いを経て亡くなったある患者さんのお話です。彼女は83歳の、それは身体の大きなおばあさんでした。脳梗塞を何回か繰り返し、再発した梗塞でダメージを受けた脳の領域が大きく、右半身完全麻痺のため歩行困難になりました。

食事の量を減らして痩せるようにいわれていましたが、その過食が発作の遠因になっていたことは事実ですし、何よりその体重がリハビリの大きな障害になってしまったのです。車椅子に載せる看護婦ですら腰を痛めるほどですから、これから世話をする家族としては不安が募ったのもうなずけます。

「お母さん。そんなに食べないで、少しはやせてくれないとお世話できませんよ。私だって60なんですから」。娘さんはため息まじりに言っていましたが、寝たきりになった彼女にとっては、生きがいと言っては食べることだけ。

「まだ食べるの」と娘から言われながらも、娘の手を借りつつ一時間以上もかけて、食事をとるその姿には、すさまじい生への執念のようなものが感じられました。結局、彼女はこの娘に引き取ってはもらえず、老人病院への転院が決まりました。

転院を前に、娘さんも自宅へ引き取れないことに気が引けるのか、「リハビリが大切なんだから、リハビリの続けられる病院へ行きましょうね。それで歩けるようになったら引き取ってあげるからね」と、噛んで含めるように何度も言っていました。

高齢、肥満、右半身完全麻痺と悪い条件が重なった彼女が歩けるようになる可能性はほとんどなく、歩けるようになったらという仮定は彼女にとって、あまりのも遠いゴールだったのです。それでも彼女は、自宅に帰るために必死のリハビリをし、回復しない機能とくじけそうになる自分へのいら立ちばかりを募らせていったのです。

まもなく彼女は、すざましい抑鬱状態に陥ってしまいました。押し黙って返事もせず、ただ泣いているかと思うと、看護婦に対してものすごく攻撃的になったりします。娘さんはそんな母親に愛想をつかしたのか、面会にも来なくなってしまいました。

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そんな彼女の姿を見ながら、私は、自宅に引き取れないなら引き取れないと、はっきり本人に言ってくれたらいいのに、と娘さんに対して軽い怒りを覚えました。いざ親が倒れたというときに、自宅で介護できないという家族が多いということ自体は、仕方がないことです。

ただ、患者さんは家に帰りたいと思い、家族は引き取れないとなれば、話しはそうそう八方円満というわけにはいきません。そこで引き取れない家族がきれいごとを並べれば、追いつめられるのは患者さんなのです。そうならないためには、むしろ対立を恐れずにきちんと話し合ってほしいのです。

私はこの娘さんに対して感じたのは、歩けるようになったらという空手形を出すことによって、「家に帰れないのはあなたが歩けるようにならないからよ」と責任転嫁するずるさでした。いくら彼女自身にも長年の非があるとしても、やはりこんな最後を見ていて彼女が気の毒でたまりません。

「脳卒中はね、ガンよりつらいんだよ」。そういったある患者さんの言葉を、私はその時しみじみと分かった気がしたものです。彼女は転院して間もなく、再発作を起こして亡くなったと聞きます。その時の彼女に子どもたちは、一体何と思ったのでしょう。

死ぬことそれ自体の悲しさ、切なさは同じでも、死に方には、やはり苦痛のすくない死と多い死があります。いじわるな見方をするなら、苦痛が長引けばどんな弱い面を見せないとも限らなかったでしょう。

死に際して人格が保たれるかどうかは、病気の成り行きにそのほとんどがかかっており、それを決めるのはただその人の運です。ですから、死に方を見てその人の生き方までを判断することは、死というものを甘く見ている気さえします。

どんなにいい生き方をしたとしても、その先にどんな死が待っているかなんて、誰にも分らないこと。人間は基本的に、降りかかってきた死を待つことしかできないのではないでしょうか。

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 3-3 ドラマチックな死

私が就職して間もなく、長年大学の名誉教授をされていた、80代後半の男性の死に立ち会いました。彼は、長い闘病の間も、人に対しては折り目正しく、配慮をなくされない人だったといいます。

私が就職したときにはすでにその病状は最終局面を迎えており、苦し気な息で時折り妻に何かを話す程度でした。それでも看護婦に対しては身体を拭いたり、身の回りのお世話をするたびに目をぎゅっとつぶって軽く頭を下げ、深い感謝の気持ちを示していました。

最後の時に、彼は家族を周りに呼び寄せ、一人一人ほんの一言ずつ短い言葉をかけたあと、「自分は、最後まで自分らしく逝きたいと思います」と目を閉じて言い、それが彼の最後の言葉になったのです。

家族も、医師も、看護婦も、その光景を前に、悲しみと同時に感動の涙を抑えることができませんでした。まだ看護婦としての経験の浅かった私にも、その彼の死をみて、立派な人はやっぱり立派に死んでいくものなんだなあと思いました。

その後も多くの人の死を見ていく中で、まず分かったことは、彼のように最後まで意識がはっきりしていて、きちんと何かを言い残して死ぬこと自体が、非常に稀だということ。ドラマの中に出てくる、ドラマチックな死にざまは、今の病院ではほとんどお目にかかれないと思って間違いありません。

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 3-4 元気な時の妻の姿を

苦痛が人格を変える。そのことを痛感させられたのは、ある70代の女性の闘病に出合った時でした。彼女は幼い時から足が不自由で、ようやく一人で歩ける状態だったのですが、持ち前の明るさと頑張りでそのハンディを克服し、幸福な家庭を築いていました。

肺がんで入退院を繰り返していたものの、最後の入院まで見た目には元気そのものでした。身体が弱っていてからも廊下の手すりにつかまりながら、一人で歩いている彼女の姿は、どこまでも前向きでした。私たちはよく、そんな彼女と軽口を叩き合ったものです。

「頑張って歩かれていますね」「ええ。みなさんのおかげで元気。みなさんの若さを分けていただいているようですよ。ほら、しわも少し伸びたでしょ」「今日も旦那様はご面会にいらっしゃるんですか」「ええ。ダーリンは私の顔を見ないと眠れないんですって」「それはそれは、ごちそうさま」「はいはい、お代はいりませんよ」

ところが運命はとても残酷。死を一気にひきよせることはせず、徐々に徐々に彼女を打ちのめしていったのです。絶え間ない吐き気で食事がとれなくなった彼女は、やがて歩けないほど衰弱してしまいました。吐き気止めの薬も、鎮痛剤もほとんど効果を示さず、彼女の衰弱は進むばかりでした。

初めは無理に笑顔をつくって「大丈夫ですよ。今が一番つらいときなんでしょうから」と自分を励ましていた彼女にも、だんだんと気力の限界が迫っていました。そしてある時、使った後のポータブルトイレを片付けるのが少し遅れたと言って、彼女は私たちに怒りを露にしました。

「全く、今の若い子は何も気がきかないんだから」。その時を境に、私たちの蜜月は終わりを告げたのです。それ以来、彼女は誰にも心を開かなくなりました。看護婦に対していつもにこやかに接していた彼女からは創造もできない沈黙と冷笑が、すべての援助に対しての答えでした。

体を拭いても、便器で排泄の世話をしても、食事の前に手を洗うようお湯を汲んで持って行っても。彼女はただ硬い表情で「どうも」というだけで、私たちと何も話そうとはしてくれません。しだいに私たちも、彼女に対して当たらず触らずのかかわりになっていきました。

もちろん私たちも、体の具合が悪くなったら、誰だっていい機嫌で人には向き合えません。しかし、元がいい人だっただけに、その変化の激しさは、ベテランの看護婦をも戸惑わせたものでした。それから家族すら耐えがたかったようで、見舞いの足が遠のいてしまい、そのことがまた、彼女のいらだちを誘っていたように見えます。

結局彼女は、すべての人と気まずいままに亡くなってしまいました。後に残ったのは何とも言えない無力感。もう少し苦痛を取ってあげられたなら、彼女の人格はあそこまで倒壊せず、家族と共に思い出深い何週間をつくってあげられたにのではないか、という後悔もありました。

「元気な時の妻のことを覚えていてください」。夫は、私たちにそう言い残して、妻の遺体とともに自宅へと帰っていきました。

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 3-5 シスターの死

信仰は死への恐れを癒すすか。これは就職した当初から私が抱いている疑問です。しかし、お坊さんやシスターといった、宗教においては人を教え導く側の人であっても、心穏やかに人生の終わりを迎えるとは限らないことを知ったのです。

シスターは80代全般の女性で、ごく若い時期から修道院の中で生活をはじめ、その修道院ではトップの位置におられる方でした。二年前から治療で何とか抑えていた肺ガンがいよいよ悪くなり、今回は最後の時を過ごすための入院だったのです。

つい最近までは修道院の中を歩き回り、軽い仕事もこなしていたといいます。しかし、入院時にはそのきびきびした面影はなく、ぐったりと寝たきりで言葉も切れ切れでした。その日から私たち看護婦は、嵐のように鳴らしまくるナースコールに泣かされることになります。

「ちょっと枕を高くしてちょうだい」「ちょっとお水を飲ませてちょうだい。そんなぬるいのはダメ。氷を一杯入れて」「ちょっと、暑いから毛布を取ってちょうだい」「ちょっと、おしぼりで顔を拭いてちょうだい」。たしかに、これらの頼みはどれも、もっともと言えばもっとなものばかり。

身をよじるのもしんどい彼女にとっては、無理のないことだったかもしれません。そのこと自体は仕方がないこととわかりつつも、私たちがどうにもつらかったのは、彼女の言い方でした。「ちょっと、〇〇〇をして」というときのその言い方は、まるで召使への命令そのもの。

そして、最後にわたしたちが受ける言葉は「どうも」でもなければ「ありがとう」でもありません。「よし」という、お許しの言葉にほかならなかったのです。中でも、忘れられないのは「カーテン事件」。主治医が看護婦とともに彼女のもとを訪れたある朝、少し開いた窓から風が入って、カーテンがかすかに揺れていたのです。

それを見て彼女は「ちょっと、カーテンが揺れないように」と言います。それで看護婦が窓を閉めると「ちょっと、窓は閉めないように」という。どうしたらよか戸惑う看護婦を横目でちらっと見た彼女は、とどめにこう言っそうです。「ちょっと、頭を使って」。

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言われた看護婦のほうは怒りを抑えながらも、カーテンを窓に絆創膏で張り付けたそうです。いかに末期の患者とはいえ、あまりと言えばあまりの言いよう、それも無表情な抑揚のない言葉で言われ分、胸にグサッと刺さるのです。

彼女は話すことが大義になり、面会に来る部下に頼んで、部屋中に頼みごとのメモを張らせたのです。「大きな声を出せませんから、口元に耳を寄せてください」「病院の岡座は好まないので、おかゆに冷蔵庫の粒ウニをに押せてください」

「急いで食べられないので、ゆっくりご飯を一口ずつ食べさせてください」「手元にかならず水をおいてください。容器が重いと困るので、半分だけ入れること」「他にもお願いしたいことがあるかもしれないので、部屋を出るときは必ず他に要件がないか確認してから出て行ってください」

これらの頼み事はみな、短冊のようなメモ用紙に書かれ、ベッド棚や壁などにテープで貼られています。私たちが入っていくと、彼女は「言わずとも分かれ」とばかりに視線で目を見やり、実際ほとんど口をきこうとしません。

そしてある時、彼女が顎をしゃくって用を言いつけたときに、ついに私の堪忍袋の緒が切れました。きちんと口元に耳元へ近づけて言うことを聞き取ろうとしていたのに。私は無性に悔しくなりました。とはいっても、相手は病人ですから、やはり言いたいことを言い返せません。

正直言って、怒りを通り越してあきれたという気持ちもありました。私は反射的にこう彼女に尋ねていました。「神様はあなたを力づけてくれているのでしょうか」と。この問いに対して、彼女はこういったのです。「神様は、私が死を前にして気弱になって、どんな醜いおのれをさらそうともわたしを許し、天国に迎え入れてくれるのです」

その瞬間、私は何とも言えないむなしさを感じました。これまでの過程がどうであれ、彼女の信仰の帰結は、やはり「自分さえよければ」の利己主義だった気がしてなりません。結局彼女は、誰にも看取られずに亡くなりました。亡骸は遺言通り、純白のシスターの衣装に包まれました。

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 3-6 老衰という死

私が見た「ああ、これが老衰なんだなあ」と思える亡くなり方をした患者さんは、94歳の女性でした。食事がとれないことによる衰弱で、何回か入退院を繰り返した彼女の最後の入院は、約一か月。その経過を見ながら、私は人老いて死ぬというのはこういうことなんだなと不思議な感動を覚えたものです。

入院してきた時には、仏様のような顔でにこにこ笑い、聞きとれない声で何かぶつぶつと呟いていた彼女。ところが、三日目になって突然意識がなくなったのです。血圧や呼吸は正常。でも、名前を呼んでも、揺さぶっても、彼女は決して目覚めません。

すぐに個室へ移された彼女を家族がかわるがわる手を取り、来るべき時に備える体制になったのです。「おかあさん」と娘が呼んでも返事はない。「おばあちゃん」孫が読んでも返事はない。ところが、意識がなくなって4目の朝、彼女は突然目を開け、来た時と同じように穏やかなほほえみを浮かべたのです。

そしてまた、聞き取れない声で、ぶつぶつ楽しそうに何かを言い始めました。さらに3日たつと、また彼女は意識がなくなったのです。私は、彼女の意識の回復は、人が亡くなる前にありがちな、一時の小康だったのかと思い、ぬか喜びした家族を気の毒に思いました。

「お母さん」「おばあちゃん」そしてまた同じことが繰り返されます。しかし4日たつと彼女は目覚めました。3日目覚めて3日眠る。ここにきて私たちは、それが彼女の睡眠パターンなのだとわかったのです。

家族も、その人体の神秘に驚いていました。(医学的根拠はありません)一か月も経つ頃、この生理パターンははっきりしなくなり、少しずつ鈍くなっていきました。点滴を刺そうにも、枯れた身体には血管すら浮いてきません。

家族も積極的な治療を望んでいませんでした。「もうずいぶんな年ですから、痛いことは止めていただきたいと思います」。いつもついている娘が、申し訳なさそうに言いました。なにもしないことが実は私たちにとって難しいことなのです。少しずつ呼吸が浅くなり脈が弱くなっていきました。

「おばあちゃん、わかる」遠くの親戚もかけつけ、親族一同が介して和やかな中に、残り少ない日々が過ぎていきます。彼女はますます穏やかな顔になり、本当に仏さまにどんどん近づいていくようでした。夜は娘が一人付き添い、巡視に回るたびに私たちに声を掛けます。

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「全然苦しんでいないんですね。母がわりと最近まで元気だったから気かつかなかったけれど、わたしも75のおばあちゃんなんですよね。平均寿命からいけば、母なんて本当に長生きなほう。私がこの年まで生きられるかどうかなんて、わかりません。

母をみとったらすぐに、今度は私が追いかけるかもしれない。そう思うと、お母さん、あなたは苦しまなくってうらやましいわ。わたしを呼ぶときはどうやって連れて行ってくれるのって、話しかけているんですよ」。言われてみれば、まさにその通りなんですよね。

「わたしも楽に死にたいわ。母みたいに、だんだん眠ってる時間が長くなっていって、いいなあ、お母さんは」。彼女は駄々をこねるように言います。その時の彼女の顔は、いくつになっても娘の表情でした。長い眠りからついに彼女が目覚めて亡くなったのは真夜中のこと。

看護婦が部屋を訪れると、彼女の呼吸は永遠に止まっていました。傍らで、娘はベッドに顔を伏せて眠っていました。その知らせたとき、娘がどんなに悲しむかどきどきしながら娘を起こしたそうです。母親の突然の死を聞いた娘は、眠そうに眼をこすって、ちょと身体をぴくっと震わせてから静かに言いました。

「ああ、最後まで苦しまずに亡くなったんですね。うらやましい」。彼女の気持ちは、母の死を越えて、いつか来るであろう自分の死に、どうしようもなくいってしまうのでしょう。

改めて言うのもおかしいのですが、人の死というものは、いつでも悲しいものです。いくら年を重ねたと、いわゆる大往生と誰しもが納得する死であっても、全く涙のない死というものは、ほとんどありません。

患者さんを見送っているうちに、最近私の中に新しいい死する対する感覚が生まれてきています。信仰を持たない私が一言でいえば「死とは、だれもがいつか行くところへ、先に行くことなんじゃないか」という感覚です。

お年寄りの亡くなり方を見ていると、死ぬっていうのは植物が枯れていくのといっしょなんだなあと、よくわかります。食べられなくなり、水分が取れないと、人間もやっぱり乾いていく。そこに無理に点滴を入れてよみがえればいいのですが、そうでなかったらむくんで、時には悲惨な状態になってしまう。

亡くなり方がきれいにという意味では、点滴は少なめに、自然に枯れるにまかせたほうがきれい。もちろん元の病気によっては治療の都合上そういかないこともありますが、可能な限り余分な水分を入れないほうがいいと、いつも思っています。死は、自然に枯れていくことなのです。

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参考資料:人間らしい死に方(シャーウイン・B・スーランド、河出書房新社)、看護婦が見つめた人間が死ぬということ(宮子あずさ、海竜社)、ヒューマニエンス死の迎え方(NHK)、肥満症診察ガイドライン・日本人の食事摂取基準(厚生労働省)など。